まつどとか
千葉北西部、
        くさのめも
      周辺ぷち植物誌。
© T. Codd

「自由研究」って。

「自由研究」って。
お話。

「自由研究 植物 名前」とかで検索してここへ来られた保護者の方へ。…夏休みですよね。
小さなサイトですが、お子さんの「自由研究」でこちらにジャンプしてきた親御さんと思われる方もそれなりにいらっしゃいます。

自由研究といえばすぐ浮かぶ「植物の観察」。
実際に観察や調査を、お子さんがその歳なりに精一杯していればよいのですが…。

得たものは?

「自由研究」って。 その「植物の観察」をやってみて、お子さんは何かを得られましたか?
植物という対象物を借りて生きるための勉強をするせっかくの機会を、親が奪ってはいませんか。


  その植物に触ってべたべたになったりしましたか。
    ぱちんと弾けて痛い目に遭いましたか。
      ちくちくしましたか。


研究の「成果」?

「自由研究」って。 例えば。
家や学校のまわりの植物は雑草として何も思わず歩いていながら、 家族旅行で山でぱしゃっと撮ったきりで観察すらせず通り過ぎたものを、親がネットで他人にただ聞いて植物名だけ出すことは、研究と言えるものでしょうか。
それは単に「家族旅行の記念に非日常の現地で見たお花のアルバムを、親が作った」だけでしょう。
撮るのがもし子供本人でも、それだけだとシャッターを押せばそれで終わりですから、毎日の絵日記に及ばない代物です。

そのものをよく知り正しく接するために興味を持ってどんな特徴があるか実物をよく観察し、どのような資料・文献をどのように調べて何を得られたかが、研究としても子供の精神的な成長としても、重要だと思います。
結果として名前も分かればそれはそれでよりよいことですが、名前を記して提出するのはゴールでも何でもありません。

(他の)「勉強」が大事だから適当にやってしまえ、と子供の人生に照らして本気で思うのでしたら、そのままを教師に訴え正式にやらない旨を表明し受け入れられなければそれが叶う特殊な環境(学校)を探してやればよいでしょう。
(私はそれが子供にとってよいこととは到底思えませんが。)
まともに取り組まずに親が取り繕って「結果」(アルバム)の提出だけをすることの何と卑劣なことか、と思います。
それに関しては人の親としての恥を知るべきでしょう。その背中を見て子は日々育っています。


「自由研究」って。 調べる際にしても、冊子の図鑑でもネットの図鑑でもよいから親はそれを与えたり図書館に連れて行き、どのように調べたらよいか(一緒に学びつつ)子に教える…それくらいのことがなぜできないのでしょう。
そもそも丁度よいコミュニケーションにもなります。

お店へ行って服を選ぶのに、ブランドと遠目のぱっと見のみで買いますか?
よく見て、触り、素材のタグを見て、洗い方を見て、もちろん価格も見て…食材だってそうです。
そのものの特徴と価値を把握する能力も、身近にあるものに興味を持つことも、とても重要なことです。
普段している「勉強」で、それはまともに身につきますか。


「代わりにやってあげてる」という親の身勝手な自己満足は、色々な芽を摘む行為です。

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